終末期キーワード(終末期を考えるキーワード)

No.4 「事前指示とは?」

text:三浦 靖彦(医療法人財団 慈生会 野村病院 副院長)

 昏睡状態や植物状態、重度の認知症・脳卒中、末期癌などで、自分の受ける医療行為について、自分自身で決められなくなってしまうことがよくあります。そのときに備えて、意識がはっきりしているうちに、自分の受けたい、または受けたくない医療行為についての希望を、あらかじめ表明しておくことを「事前指示」といいます。

 例えば、「癌の末期状態であるが、この先、自分の意思を表明できなくなったとしても、痛みを抑える治療は十分して欲しいが、いわゆる延命治療はして欲しくないと文書にして残しておく」「肺の病気(慢性呼吸不全)で通院中だが、病気が悪化したときは、人工呼吸を含め、考え得るすべての医療行為を行ってほしいと、配偶者に伝えておく」「具体的な医療行為はわからないが、自分が判断能力のない病状に陥ってしまったら、自分に行われる医療行為に関するすべての決定権をAという人物に任せると、指示しておく」 などがあげられます。

 このような希望を文書にしたものを事前指示書(リビング・ウィル)といいます(※)。

 今の日本では、他のいくつかの国や地域と違い、事前指示に法的拘束力がありませんので、必ずその通りにできるとは限りません。家族が事前指示に反対することにより、患者さんの指示通りに実行できない場合もありますし、指示内容通りにすることによって法的な問題が生じるおそれがある場合、医療サイドが躊躇することもあります。

 しかし、日本でも、医療に関する幾つかのガイドラインの中で、「主治医や家族が、治療方針を決定する場合においても、患者さん本人の事前指示による内容を尊重しながら、話し合っていくことの大切さ」が強調されています。


(※)事前指示書には、尊厳死の宣言書、意思表明書など多くの呼び方、書式があります。当会の提案する「私の生き方連絡ノート」は、事前指示も含んだ、より幅の広いものに仕上げてありますので、どうかご覧になってみてください。


「事前指示について Aさんの物語 ~前編~」

 Aさんは、今年で91歳になる女性です。度重なる脳梗塞により、都心近郊の病院に入院し、そろそろ1年が経過します。右手と右足はほとんど動かなくなり、呂律もうまく回らないため、会話も十分に出来ず、ボーっとしていることが多い毎日を過ごしています。しかし、家族のことはある程度認識できるようで、長女や孫がお見舞いに来た時などは、にこやかな顔をしています。病院のスタッフさんたちが1日3回食事を食べさせてくれていますが、むせる事も多く、食欲もないため、出された食事の半分も食べられません。

 Aさんは、25歳のときに結婚をして、ご主人の仕事で数年間の海外生活を過ごしたりしながら、幸せな生活を送り、2人の子供(長男と長女)を育てました。2人とも既に結婚し、幸せな家庭を築いています。長女は隣の町に住んでいるために、Aさんの入院後も頻繁にお見舞いに来てくれています。一方、長男は仕事の都合で他県に在住しており、顔を見に来るのは数ヶ月に一度程度です。

 Aさんは、ご主人を15年前に肺がんで亡くしましたが、その時の凄惨な体験から、自分が末期の状態になり、回復が見込めない状態になったら、それ以上の延命治療は受けたくないと考えていました。言葉が不自由でなかった頃には、そのことを長女に時折話していました。

 そんなAさんが、ある日、食事を喉に詰まらせ、それが元で重い肺炎にかかってしまいました。実は、この1年で3回目の肺炎でした。今までは抗生物質の点滴で、なんとか持ちこたえてきましたが、今回は肺炎が重く、人工呼吸器を使用した治療が必要なほど重症です。人工呼吸器を使用せずに治療をした場合、肺炎が治る可能性は低く、1-2週間程度の余命ではないかと考えられます。人工呼吸器を使用した場合、肺炎が2-3週間以内に治れば、人工呼吸器をはずし、今と同程度の状態に戻ることができますが、その可能性は低く、肺炎が長期化した場合は、筋力の低下等により、肺炎がある程度治ったとしても人工呼吸器をはずすことができなくなる可能性が高いと説明を受けました。その場合、現在の栄養状態から考えて、余命は6ヶ月から1年程度であろうといわれました。人工呼吸器を使用している間は、会話もできず、いわゆる植物状態に近い状態でいることになるのだそうです。


後編(テイク1;事前指示のない場合)

 主治医から説明を受けた長女は、Aさんが「延命治療は受けたくない」と日頃から言っていたことを思い出し、人工呼吸器をつけないで欲しいと考えていました。ところが、知らせを聞いて駆けつけた長男が「出来る限りの医療を施してください。あんなに世話になった母親を見殺しになんて出来ません。お金はいくらでも都合をつけます!」と、語気荒く力説しました。長女は、「人工呼吸器による治療を行わない」という提案は、母親を見殺しにすることなのかと思うと、自分の意見に自信がなくなり、Aさんが以前話していた希望を、長男に伝えることも出来なくなってしまいました。


 結局、人工呼吸器による治療が開始されましたが、肺炎が長引き、人工呼吸器をはずすことが出来ず、Aさんは点滴や尿の管が入った状態で2ヶ月目を過ごしています。毎日お見舞いに来る長女は、自分自身も体力・気力の限界を感じつつ、つらい気持ちで、母親を看病しています。あの時、兄に、母親の気持ちをきちんと伝えればよかったと自分を責めたり、何度かテレビや雑誌で見聞きしたことのある、リビングウィル(直筆の事前指示)を書いておいてもらえばよかったのにと悔やんだりしています。


後編(テイク2;事前指示のある場合)

 今回の入院の5年ほど前のことですが、長女は、ある雑誌に載っていた「リビングウィル(事前指示書)」についての記事を読み、一緒にAさんの事前指示書を作成していました。「回復の見込みが望めず、余命の少ない医学的状況になった際は、積極的な延命治療は受けたくありません」というのがAさんの希望でした。また、備考欄の「自分が大切に思うこと」の欄には「孫の成長を見ることが今の一番の楽しみ」と書き添えてありました。

 主治医から説明を受けた長女が、Aさんの「積極的な延命治療は受けたくありません」という事前指示書を主治医と長男に見せた所、長男も主治医も理解を示し、人工呼吸器は使用せずに、抗生物質の点滴治療だけで経過を見ることになりました。

 肺炎にかかる前のAさんが、ボーッとした意識の中で、楽しみにしていると思われることがありました。長女の一人娘が半年後に成人式を迎えるのです。長女の成人式の時にかなりの無理をして誂えたすばらしい晴れ着があるのですが、それを孫娘用に、なじみの業者が仕立て直してくれると決まっており、成人式には、孫娘が晴れ着姿を見せてくれることになっていたのです。
 事前指示書の備考欄の「孫の成長を見ることが今の一番の楽しみ」の記載に気が付いた長女は、成人式まではAさんの生命が持ちそうもないないことから、人工呼吸器による治療をすべきかとも悩みましたが、長男と相談した結果、Aさんの事前指示を尊重することを第一と考え、孫の晴れ着姿を成人式まで待たずにAさんに見せることに決めました。
 1週間後、孫娘が晴れ着を着て病室にお見舞いに来ました。今のAさんには、孫の晴れ着姿が鮮明に見えたかどうかはわかりません。でも、家族には、それまでの辛そうなAさんの顔つきが、わずかににこやかになったように見えました。
 Aさんは、その3日後に、家族みんなに見守られながら、安らかに亡くなりました。


《終末期キーワードのトップページへ戻る》