様々な終末期(事例の紹介)

text:渡辺 敏恵

 人それぞれ、とはよく言われる言葉ですが、それは人生の終わり方についても言えることです。同じような病気や状況でも結果が同じとは限りません。ここでは、実際にあったさまざまな人生とその終わり方をご紹介します。その一生の中に何かを感じていただければと思います。

事例1 「89歳 女性の場合」

 八重さんは、85歳まで元気で一人暮らしをしていました。しっかりした方で、同年輩の人たちからも頼りにされ、料理上手なこともあって、お祭りのときには近所にお赤飯を配るのが楽しみの一つでした。

 しかし、さすがにこれ以上は一人暮らしは心配と長男の家族が同居を勧め、しぶしぶ隣の県に引っ越します。そして、やっと新しい暮らしに慣れてきたときに自宅で倒れ、救急病院に運ばれました。

 検査で“脳出血”と診断され治療をしましたが、治療後も右半身のマヒと意識障害が残りました。そのため、食物を飲み込むことも困難で、医師は胃瘻(いろう:胃に直接チューブを入れて流動食を流しいれるようにする処置)を勧めました。

 1ヶ月後、八重さんは症状が安定したので、胃瘻(いろう)を増設した状態で、退院を勧められました。しかし自宅は昼間は家族が働きにでるので介護する人がいないため、療養型の病院に転院しました。その病院に転院してから、およそ3年が経ち、マヒや意識障害はほとんど変わらず、手足の筋肉は委縮して曲がってきていました。またその間、熱を出したり流動食を嘔吐したりと、幾度か状態が悪くなることはありましたが、その度に何とか切り抜けていました。ところが、今度は、嘔吐した際に肺に嘔吐物が入ったらしく肺炎を起こし、状態が悪くなり、家族が呼ばれました。医師が「今回は状態が悪く、酸素吸入もしているが楽観できない状態です」と話すと、珍しく来られた長男の方がぽつんとつぶやいたのです。

「なんだかどんどん、おふくろが言っていたことと違うほうへ、ことが進んでしまって、私としてはどうしていいのかわかりません。」

 医師がびっくりして、どういうことかと尋ねると、「おふくろは常々、“鼻からチューブを入れて意識がないまま生きてるなんてごめんだよ。何人もそういう状態の友だちや近所の人を見てきたからねぇ。私は自分でご飯が食べられなくなったときが死ぬときだと思っているよ”と話していたんですよ。それを忘れたわけではないんですが、急に倒れて気が動転しているときに、胃に穴を開けて栄養を入れると言われても、それが鼻からチューブをいれることと同じ意味をもつとは想像できなかったんです。それにまた口から食べることができるようになれば胃の穴はすぐふさがると聞きました。私たちには選択の余地なんて考えられなかったんですよ」と話されました。

 そして、「先生、もし今回を乗り切っても、もう胃瘻(いろう)から栄養を入れるのをやめるというわけにはいかないんでしょうか?」とまで言われました。医師が答えをためらっていると、「いや、ダメなのはわかっています。でも、一度言ってみたかったんです。どうしてこうなってしまったのか、自分の心の中に持っているのが限界だったんで…」と話されました。

 医師は、前の病院で胃瘻(いろう)を作ったときの説明が、実際はどのようになされたのかはわかりませんでしたが、肉親が急病になった状態の家族にお話をして、理解し判断していただくということがどれほど難しいことかを改めて考えさせられました。そして、患者さん本人の意思と家族の選択が、後悔の残らないようにするにはどうしたらよいか、もう一度話し方を整理してみなくては、と思いました。

 八重さんはそれから3日後、家族に看取られて最期を迎えられました。



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今回も、『胃瘻(いろう)』の場合についてですが、事例1とは、少し事情が違います。今回と合わせて、考える参考にしていただければ幸いです。

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事例2 「93歳 女性の場合」

 アサさんは、細面の、さぞかし若いころ美しい方だったであろうと誰しもが思うような上品な感じの女性です。

 80歳を過ぎたころから認知症の症状が目立ち始め、長いこと住み込みで居たお手伝いさんが高齢で故郷に帰ってからは、一人暮らしが困難になってきました。

 ご家族は医療関係者が多く、息子さんの義雄さんは外科医、娘さんの美恵子さんは眼科医、それぞれの伴侶も医師や薬剤師で、皆さん多忙を極め、アサさんと同居できないため、アサさんは有料老人ホームに入居しました。しかし、認知症の進行と共に肺炎を起こすようになって、入退院を繰り返しました。3回目の入院の際、嚥下機能(食物を飲み込む力)の検査を受け、これ以上の経口摂取(口から食事をとること)は危険と判断されました。つまり、食事を飲み込む時に、呼吸の通り道の気管に少し食べ物が入ってしまい(「誤嚥」(ごえん)といいます)、これが肺炎の原因だったようなのです。この時、急性期の病気を診る病院に入院していたのですが、次の療養型病院へ転院する際の紹介状には、「家族の強い希望で胃瘻(いろう)を造った」と書いてありました。義雄さんは、「以前は胃瘻を造るつもりはありませんでした。担当医師にも、どうしても希望するなら造ります、と言われました。このまま細々と食べられるものを食べて、次第に弱って朽木の如く人生を終わる選択もあったかもしれません。でも、まだ母は、私の顔もわかりますし、話もできます。体に麻痺もありません。このままでは、胃瘻を造らないと見捨てるように感じました」と転院後に述べました。美恵子さんは、「まさか美食家の母が食べられなくなるとは想像しませんでした。でも大した病気もないのにこのまま死なせるわけにはいきません。母は兄を一番信頼しているので、きっと胃瘻にしたことは受け入れていると思っています」とのことでした。

 さて、療養型の病院に移ってからの、アサさんは、どういう日々を過ごしたでしょう?

 胃瘻のチューブは自分の手で触れますが、たまに栄養を入れているのを見つけると、何か理解できないので抜いてしまって、寝巻がビショビショになることもあります。ベッドに臥床することが多かったので、看護師がなるべく車椅子に乗せようとするのですが、すぐに「年寄りをいじめないで、寝かせてよ」と叫びます。時々おむつに手を入れて便をいじってしまうことがあり、膀胱炎を起こしやすくなりました。汚すたびに入浴させます。排便のタイミングを見るのも大切です。また時々熱を出すので、なかなかホームでは受け入れてもらえません。家族は、状態が悪くなったらすぐ対応できるので療養型の病院に入院したままを望んでいます。一度、調子が良いので、息子さんと相談して、訓練食のゼリーやプリンを口から食べていただいたこともあります。でも、アサさんは、一口食べると、もう結構、ごちそうさま、と自分から終わりにしてしまいます。食べるということに、興味を失ったようで、ほかの人が食べるのを見ても無関心でした。

 アサさんが入院してから、3年が過ぎました。何度か腎う炎や肺炎をおこして、危機もありましたが、何とか乗り越えて、相変わらずの日々を過ごしています。家族のことはわかり、お話もできます。しかし、今となっては、アサさんがどういう人生観を持っていて、どういう晩年を望まれていたのかは、誰にもわかりません。

 このように一見穏やかな晩年がいつまで続くのか、それも誰にも予想できないことなのです。